白神の自然保護の歴史
@青秋林道建設を進める「青秋県境奥地開発林道開設促進期成同盟会」が発足したのは53年12月(1978年)。秋田県の八森町が呼びかけ、青森県の西目屋村、鰺ヶ沢町、岩崎村が加わって当初4町村でスタートした。青秋林道は八森町と西目屋村間を全長28.1キロで結ぶ計画だった。それがルートが変更され、秋田側の藤里町を通る計画だったのに二ツ森の北側3.5キロが鰺ヶ沢町に入れられ、全長は29.6キロになった。これが後に大きな問題になった。 (この計画変更が白神山地を世界遺産にした導入部となる)


A白神山地を縦断する青秋林道の反対運動が始まったのは1982年である。今でこそ白神は世界遺産として有名になったが、20年前の当時、白神は地元の住民さえよく知らない無名の山塊であった。一般の国民の意識の中にも自然保護、環境問題がまだ浸透していない時代である。青森と秋田、東北地方でも最も保守的な地域で、住民運動の経験もない地方で、なぜ公共事業が中止になったのか。その理由を知ることがこの問題を理解する最大のポイントである。 

 青森側で反対運動に立ち上がったのは根深誠(ねぶか・まこと)という一人の青年であった。根深氏は弘前市出身で、明治大学山岳部OB、故植村直巳氏の弟子である。エベレスト遠征の経験も持っている。大学を出て、半ば漂流生活の末、弘前に戻り、再び故郷の山に再び親しんだ。そんな時、青秋林道問題が持ち上がった。彼こそは、弘前を中心に反対運動を組織化していった中心人物である。 秋田側で反対運動に立ち上がったのは鎌田孝一(かまた・こういち)氏である。鎌田氏は秋田県の地元の藤里町で写真店を経営しながら、山の写真を撮ったり、子供たちを相手に自然観察の指導などをしていた人物である。 

 青秋林道の反対運動は、青森と秋田で、時期的にはほぼ同じ時期に取り組みが始まった。しかし、その中身は、青森と秋田とは、人間関係のつながりもなく、反対運動に取り組む目的もまた異なっていた。何の関連もなく、別々に起きたものである。それが二つの県にまたがってしまったところに、問題を複雑にしている原因がある。もともと青森と秋田とは、江戸時代から見ても経済的、人的交流がほとんどない地域だった。現在もそれほど変わってはいない。