「赤石またぎ」

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「赤石またぎ」の大谷石之丞さんについて

大谷石之丞さん(以下大谷さん)は、明治38年4月25日、津軽で最も僻地と思われる赤石奥地の一ツ森に、百姓の次男として生まれました。小学校卒業後、家業に従事の傍ら、またぎのシカリ大谷吉左エ門さんから、またぎや川漁の手解きを受けました。

大谷さんが生まれた一ツ森(当時は赤石村・現在は鯵ヶ沢町)及び大然は、藩政時代からまたぎの村として知られてきました。昭和62年8月25日、82才で亡くなるまで、60年以上も獲物を追い続けた命がけの人生でした。

 

またぎの姿  持っている槍(たて)でクマを突き刺します

 

マス捕り名人  赤石川では、昔はたくさんのマスが捕れました

 

 

大谷さんは、一時地域内のまたぎ組に入るが、腕に覚えのある大谷さんは、集団でのまたぎに飽き足らず、結局、終生そのような人数の多い仲間に入りませんでした。しばらく独自でまたぎをするが、大谷さんの考えに共鳴した山下一孝さんは、およそ30年間、大谷さんを陰に陽に助けていきました。

 

≪大谷さんの人柄について≫

山のくわしさにおいては、右に出るものがいないほどで、山の読みが鋭い。より安全により効率的に目的を果たすためには、何といっても山を知ることが最も重要な条件となります。大谷さんは、持ち前のこの特技を生かして、クマのいそうな所へ迫るのに妙を得ていました。
クマがどこを通るか、どこで待機していればよいか、事の成り行きについての判断は、まことに適切で、事実、その通りになることが十中八九であり、まことに戦略に長けた人でした。その戦略にしたがい、獲物を追うわけだが、ねらった獲物は、大抵手中におさめました。何事につけ、下準備のよい人でした。
また、大谷さんは、歯に衣を着せず、言いにくいことでもずばり言う人でした。ガラガラした気性ではあるが、大変人情に厚く、涙もろい面もあり、決して人をごまかさず、時に子供っぽくおどけるところもあった人でした。

 

 

胸像の建立

大谷さんは生前、自宅前に自分の胸像を建立しました。これには、大過なく狩猟ができたことへの感謝と、これからの加護を祈念すると共に、自分の業跡を後世に長く残すねらいがありました。この胸像には、次のような内容が刻まれています。

「明治三十八年四月二十五日、大谷平内、トセの二男としてこの地に生まれ、幼少の頃から老翁大谷吉左エ門氏に随い、友人大谷大輔と共に狩猟に従事した。昭和五十七年四月二十八日までに、赤石川奥地で捕った熊の数は、実に七十八頭の多きに及んだ。之れを記念し茲にこの像を建立する。昭和六十一年十月大谷石之丞」

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