「赤石またぎ」

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「赤石またぎ」の資料消滅

「赤石またぎ」の一流またぎが集中していた集落の一つである大然集落は、昭和20年3月、大雪と大雨によって赤石川が氾濫し、川が塞き止められ、それが鉄砲水となって寝静まった集落を遅い、88名の生命を奪い、21戸のうち20戸が根こそぎ流失、集落は跡形もなくなってしまいました。
奇跡的にも、16人が高台の神社へ逃げて助かり、さらに終戦によって復員した人や、その晩他の地域にいて助かった人達の力によって、戸数は当時の半数になったが、一ツ森のすぐ隣接地に見事に復興しました。だが、この災害によって、すべての用具や文献など、古い資料を失ってしまいました。

大然集落の全滅で片腕をもがれ、さらに、戦後の社会急変により、殿様の「御用またぎ」まで仰せつかった由緒ある赤石またぎも、明治が遠くなってかすみ、大正もにわかに遠のきつつある今日、もはや伝統的な狩人の風俗風習など、昔物語になろうとしています。

 


大然遭難碑(遭難者追悼碑)

 

≪大然の話≫ (ふるさとあじがさわ<改訂版> 鯵ヶ沢町発行より抜粋)

昭和20年は、大変雪の深い年でした。3月にはいってからも大雪があり、汽車がとまったりしたことがありました。3月の中ごろになっても雪がたくさん降ったり、何日も雨が降ったりしました。このため赤石川の上流の雪や土がくずれ、いわゆる底なだれをおこして、赤石川をふさぎ止めてしまいました。赤石のいちばん奥の方にある大然の部落の人たちは、「どうも川の水が不足になったなぁ。」とは思っていましたが、川の上流がふさぎ止められていたことには気がつきませんでした。ところが、ふさがれた川はダムが水をいっぱいためるようなかっこうになり、それが水の圧力によって破られ、一時にどっと、大量の雪の固まりを押し流したのです。それが3月22日の深夜でした。
流れて来た水の高さは10数メートルもあったものですから、川岸にあった家は土台ごと流されてしまいました。もちろん部落の人たちが逃げるひまなどはなかったでしょう。部落のぜんぶの家20戸が流され、男41人、女46人が家といっしょに流されて亡くなりました。

 

 

 

 

大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)

またぎ集落には、必ず神社がありました。鯵ヶ沢町一ツ森の奥にある大山祇神社は、旧大然集落の神社であり、昭和20年3月の大洪水の際に、16人が逃げて助かった場所です。
その神社の下には、またぎの名前が刻まれた社標「またぎ碑」があり、町の有形文化財に指定されています。

 


高台にある大山祇神社

 

大谷さんも、一ツ森の久須志神社に社標「またぎ碑」を奉納しました。それには、次のように刻字されています。

「明治38年4月25日、父大谷平内の二男として生まれ、小学校卒業後直ちに、老翁大谷吉左エ門氏に随い、友人大谷虎輔と共に、狩猟業に従事、爾来今日に至る迠獲った熊の数量実に43頭に及んだ。之れ偏えに氏神の加護による事と感謝し、茲に社標を奉納することにした。
昭和36年7月11日 大谷石之丞敬白」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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