地形図や、県土木事務所からの、幻の街道と言われた恩愛沢の街道は、道路建設計画がありながら今では、幻の街道と呼ばれている。その計画予定の図面などのコピーをもとに、地元の古老、神 尊さんの案内で、赤石渓流の支流の一つでもある恩愛沢の流れる川沿いの小森林道を登っていく。入り口は、小森の丁字路のあるところから入る。途中、小さな神社があり熊野の神社らしく、古老は、昔、岩木山と近くの然りガ岳が喧嘩をして、岩木山が刀を振り下ろしたら、然りガ岳の山が二つに割れた山だと話す。その山の山頂に神社が元々あっものだと教えてくれた。その神社を今は、林道わきの小高い所に持ってきて置いてあると教えてくれた。
途中、2キロほども入ると、恩愛川の砂防ダムが見えてくる。
そしてまもなくすると、左側に古道の入り口がある。神さんいわく、昔、自分が小学生の頃、岩木山参詣の時に、「サイギサイギサイギ」と声を出しながら、この道を通り岩木山神社に行ったと述べていた。もうかれこれ、70年近い間歩いていないとも述べていたのが印象的だった。
さて、古道に入る為には、まずは恩愛沢を渡らなくてならない、この時期はまだ水が冷たく、水かさが少ないので、長靴程度の高さでも渡れるが、時期によっては大量の水が流れている場合もあるらしいので、注意が必要とのことた。
50メートルも歩くと、今度は坂道になっていく。落葉の森は静寂で道とはいいがたく、タムシバや笹の枝が道を塞ぐ。傾斜がだんだんきつくなるが、道らしき箇所にマークを付けて登っていくと、右側の下に恩愛沢の川が見えて来る。落葉の時期なのでよく見えるが新緑の時期だとまったく見えないと思う。その先には、泣けずら山(岩木山に負けた山という意味)や、一ツ森山がみえてくる。
笹や立木が多く前に進まない。でも驚いたのは、古老の話しでも、昔この道は馬二頭が並んで歩いた道だったということだ。その面影ではないが、道の幅が結構横に広く安心して登れた。普段は狭い山道しか歩かないからかもしれないので、道幅だけは安心した。
だんだん急斜面が多くなり、立木にさいなまれつつ息を切らしながら尾根筋を登り見えてきた。しかし、もう少しのところで道らしきものがわからないくらい、草木とツルがあり、判断に迷った。とにかく尾根に抜ければ何かわかるだろうと思い、藪こぎでぬけて、道らしきものを探したが、なかなか見つからず、方位計を確認して、北東側の反対側の尾根筋を左側に下ったら途中から道らしきものが見えて来た。
もう一度、今度は北西の位置を確認して、道らしいところをもう一度尾根を駆け上がり、道を探しに入った。でもだいたいはわかったが、約、100メートルはつながらない。宿題が残ってしまった。そして、マークをつけてもう一度来た道の交差した点にもどり、北東の方角に移動して、その先の道を進んだ。そうしたら今度は、土砂崩れで道路が寸断された道にぶつかり、そこは川になっていた。
山の上の川である。一度川まで下りて、また、はい上がり次の道へと進んだ。そこまで、約1時間30分程度での時間がかかった。その後はスムーズに進み、約20分歩くと林道にぶつかる。左に20程度いくと杉林にぶつかりいきどまりである。右に曲がると、林道わきに古い昔のブルトーザーが捨て置かれている。
そこから見える岩木山もとてもきれいである。そのまま林道を歩くと田園風景となり、里が近くにあるというのがわかる。足も軽やかになり、20分程度で、黒森集落が見えてきた。まず、最初に目に留まるのは、「山神神社」である。古い杉木立ちの階段を登っていくと小高い丘の上に神社が建っている。本当に無事たどり着いたという気持ちが、頭を下げていた。
熊対策をしつつ、爆竹をならしながらの古道探しだったので、とても緊張感と寒さで顔はとても冷たかったし疲れました。
そこからは黒森のバス停前を通り、古い民家の前を通り、光信公が、黒森集落で一休みをした時に使われた水飲み場を散策して、バス停の前の小屋でしばし休憩をしてから、黒森集落を後にして、細ケ平地区、そして深谷地区、山子に抜けて、赤石川を渡り、種里城の跡地に向かいました。
途中、種里集落の中にある、種里八幡宮神社に行ってみた。1523年光信公が創建した神社だ。 津軽藩ゆかりの社宝が収められている。 境内には、四本の大きな杉が参道わきにあり、重厚感を漂わせていた。その足で、今度は、光信公が居城を構えた、種里城跡地も訪ねた。
なぜ、この日本海から、ほぼ8キロメートルも入った赤石川の種里地区に家城を構えたのかは謎である。しかし、この古道を歩いてみて感じた事の一つに、当時、海の海賊と言われた安東一族は、十三湖に唐桑城や福島城の居城を構えて日本海を治めていたとすれば、話しが見えてきた。
今の「お仮や」の場所に津軽藩の奉行所跡があるが、安東一族の勢力からいくと、やられてしまう。だから、引っ込んだ内陸部の種里地区を選んだのではと思えてならない。
その後、安東一族が滅び出から、海の方は津軽藩の御用達港となっている。
今の港に構えていたら、安東一族と決戦をしなければならず、その勢力は安東一族が勝っており、赤石地区の種里に、岩手県の久慈市から南部の殿さまとたもとを分かち、この地に館を構えたのではないかと勝手に推測した。
現在の鰺ヶ沢警察署の前にある、「お仮り屋跡」は(井戸跡)その後の、北前船時代の御用達港である。大浦光信公は、ここに居城を構え、米所の津軽平野に勢力を伸ばすべく、十分に兵と食料を貯め勢力を大きくして、この古道を使い、岩木山のすそ野を通り、現在の、石川地区にある、堀越地区に、まずは城を構え、その後に、現在の弘前城に城を構えたのではないかと推測される。
種里城史跡の前の入り口には、国の史跡でもあり、「津軽藩発祥の地」の石碑もある。坂を駆け上ると、二代政信公の時代に近衛家との縁で、近衛家の家紋でもある「牡丹家紋」が津軽家の家紋となり、この地に「牡丹園」ができた由来が書いてあり、毎年5月の下旬から六月にかけて、牡丹祭りが開かれている。
その上には、光信公の資料館があり、種里城時代の津軽家の資料が収納されている。その資料館の上の方が、種里城の本丸があったとされており、本丸跡地の標柱が建っている。 その目の前には、光信公の銅像が建っており、軍配を持って、「いざ出陣」と叫んでいるように見えるのは私だけだろうか?
その先が、どうも、今回探した小森地区の恩愛沢の古道の方を指しているのではと私が感じ、感慨深い思いがした。また、この種里城と堀越城、そして、現在の弘前公園にある、弘前城が岩木山のわきを通り一直線になっているように見えるのが不思議である。
岩手県の久慈市を出発し、種里城に居城を建て、堀越城、そして弘前城と津軽平野を治めて大きな津軽藩、そして弘前藩を形作るまで勢力争いは続いたと推察する。その間、絶えず日本海の夕日やご来光を見ては、故郷の種里城を仰いでいたのではなかろうか。
この古道は、もう少し整備しないと歩けない。これから関係機関とも話しあいをし、一日も早く、多くの方々に通ってもらい、津軽の殿さまの津軽平野に進出した古道として楽しんでもらいたいものである。
今回の古道探しは、寒さと立木とツルや笹の多さで、ヘルメットとナタがなければ、前に進むことができなかった。また、この日の古道探しだけで約3時間かかった。私は歩くのがいつも早いのでそのぐらいで済んだが、午後は、種里八幡宮、種里城めぐりは、吹雪の中を行った。
2017年11月30日(木)
古道探し、NPO法人白神自然学校一森校 代表理事 永井雄人
(平成29年12月1日文責)